Monthly Archive: 6月 2005

ミュージックバトン

Kさんから渡されたバトン、落としそうになるどころか、
渡されたことも忘れかけてたりして、、、(^^;)
本当は、ちゃんと覚えてましたよ。そんなわけで、お答えいたします〜〜。
【質問1】コンピューターに入っている音楽ファイルの容量
13.8 GB。
僕の古いiPod の容量(15GB)を越えないように気をつけてます。
【質問2】今聴いてる曲
今、仕事の合間なので、自分の作っている奄美の自然音聴いてます。
【質問3】最後に買ったCD
「Sound Effects from Hollywood」
サウンドエフェクト集。仕事で必要で買わざる得なくなったので。
これがまあなんと出来の良くないSE 集でして、、、ガッカリ。
そういえば、最近、ぜ〜んぜんCD買ってないですね。
【質問4】よく聴く曲、または特別な思い入れのある5曲
『funkabilly Swing』 by Michael Sembello
自分が今まで聴いた曲の中で、最もファンキーな曲だと思う
『いまぬ風雲節』by 朝崎郁恵
奄美の島唄の第一人者、朝崎さんによる島唄。
泣きそうになる。
『人生の花』by カオリーニョ藤原
辛いことがあった頃にとても慰められ、励まされた曲
『テーゲー』by VOCE
同じく、辛いときに助けられ、元気づけられた曲
『One Thousand Summer』
娘が生まれた日に作った曲。
【質問5】ミュージックバトンを渡す5人。
団体行動が苦手なもので・・・と訳の分からないことを言いつつ、ご辞退したりして・・・(^-^ゞ

愛知博 奄美プロジェクト

愛知万博(愛・地球博)で開催される奄美プロジェクトの僕のイベントの日程が決まった。
このプロジェクトは音楽評論家の増渕英紀さんが中心になって進められていて、
7月25日〜31日の1週間開催され、8月27日には大トリ、朝崎郁恵さんのライブで
締めくくられることになっている。
僕は7月30日に、奄美で収録した自然音をネタにイベントをすることになった。
内容はこれから詰めていく予定だか、もしその時期愛知博に行く予定のある方は、
是非のぞきに来て下さい。
奄美プロジェクトの詳しい情報はこちらをご覧下さい。

神唄祭

昨日お見せした写真は、高橋さんのコメントにもあるように、奄美出身の朝崎郁恵さん
と、アイヌの神唄を唄う安東ウメ子さんが初めてジョイントしたコンサートだった。
僕はその後、安東さんに会いに北海道に行こうと思っていたのだが、残念ながら
お亡くなりになってしまった。改めてご冥福をお祈りしたい。
この日は午後からお天気が崩れ始め、ポツリポツリと雨が降ったりやんだり、という
あやしい空模様で、今にも嵐が来そうな雰囲気の中での野外コンサートだった。
それが朝崎さんが登場するころから、雲の切れ目から太陽がでるという、自然の
恵みの演出が本当にドラマチックだった。

この空の色の美しさを見て欲しい。そしてこの空の下で歌う朝崎さんの島唄は
本当に心の隅々まで、いや身体の細胞の隅々までしみ込んでいくような気がするほど
素晴らしかった。ピアノに向かう後ろ姿は高橋さんだ。このときの高橋さんのプレーも
鳥肌がたつほど素晴らしかった。

高橋全さんに会った

先日、ピアニストの高橋全さんと会った。
その前日に池上本門寺での朝崎郁恵さんのコンサートで久しぶりにお会いしたの
だが、コンサートが終わった後も、お互い知人がそこら中にあふれかえっていて、
ゆっくり話も出来なかったので、日を改めてゆっくり会うことにした。
高橋さんは、僕が最初に奄美に行った時に、古本屋「あまみ庵」の森本さんに
勧められて手にした写真集『うたばうたゆん』が出会いのきっかけだった。
その写真集は、奄美の写真家、濱田康作さんの写真に、島唄の朝崎郁恵さんの
CDが付けられていた。そのCDは今でも僕のフェーバリットで、朝崎さんの
作品の中でも飛び抜けて素晴らしいと思っている。
なんといっても、あれほどプリミティブな奄美の島唄を、いったん分解し、
高橋さん独特の繊細さと島唄に対する深い愛情をもって、丁寧に丁寧に
組み立てなおしたような作品で、その美しさと奥深さは本当に驚くばかりだった。
そのCDを最初に聴いたときはあまりのショックに、奄美での録音を断念して、
ロスに帰ろうと思ったくらいだった。

↑一昨年の秋、奄美大島での朝崎さんのコンサート。
ピアノを弾いているのが高橋さん。朝崎さん(中央)の右側で歌っているのは
島唄界のホープ中孝介さん。
    
その後、いろんなシチュエーションで朝崎さんのライブを見ているが、
高橋さんほどの深さと繊細さでサポートする人は見たことが無い。
秋葉原のライブハウスで見た朝崎さんのライブは本当に最高だった。
1曲目からもう涙が出て止まらなくて、3曲くらい泣き続けて、4曲目以降は
泣き疲れて放心状態だったのが忘れられない。
その話を先日会った時にしたら、
「ああ、あの時のライブは本当に素晴らしい出来でしたね。」
とおっしゃっていた。
その高橋さんがご自身のホームページで僕のことを書いてくださっているので、
ご紹介します。
【以下本文】
先日、知人の『自然音録音家』ジョー奥田さんにお会いしてきた。
ジョーさんはロサンゼルスでドラマー&エンジニア、プロデューサーとして
活躍してきたばりばりの方なのだが、・・・・続きはこちら

お知らせ

以前もお伝えしたことだか、先日、音元出版の企画で行なわれた、石田善之さんとの
対談が、6月15日発売の『Analog』誌のP146に掲載された。
analog2.jpg
長い時間の対談だったのだが、僕の脈絡の無い話を見事にまとめて下さった石田さんの
文章は本当に見事だった。僕の写真も今まで雑誌に掲載されたもののなかでは、最も
「男前」に写っていたので、ちょっと嬉しかった。
読者プレゼントとして、今後発売予定の『Yakushima』CDを10枚用意しているので、
ご希望の方は『Analog』誌 P135の読者プレゼントのコーナーからご応募ください。
そしてびっくりしたのが、、、
なぁ〜〜んと巻頭カラーのインタビューが増渕さん!!
増渕さんと同じ雑誌に掲載されるなんて、ホント奇遇だし、光栄なことです!

旅の始まり2

奄美への旅を決めた僕は、早速奄美について調べ始めた。といってもロスからでは
資料もなかなか手に入らなかったが、それでもネットでわかる範囲で調べてみた。
そうこうしているうちに、僕の友人が
「ロスに『奄美会』という奄美大島出身者の会があるのご存知ですか?
私の友人が幹事さんをやっているのでご紹介しましょうか?」
と申し出てくれた。
「是非お願いします。」
数日後、モントレーパークにお住まいの奄美会の方とコーヒーショップでお会いし、
いろいろと島のお話をうかがった。そしてその方が、
『来週奄美会の新年会があるからそれに来るといいよ。いろんな人に話が聞けるから。』
『えっ? ほんとにいいんですか?』
『ああ、いいよいいよ。幹事さんに言っておくから。』

そんなわけで、ガーディナの鍋料理屋でひらかれた奄美会の新年会に出席させてもらった
のだが、それがまたかなりブッ飛んでて面白かった。
僕は友人に連れられて、やや早めに会場に着いたのだが、まだ数名の方しかいらっしゃら
なくて、所在なさ気に座っていると、
『あなたたち、、、ああ、うんうん聞いてるよ。まあ飲んで待ってましょう。
みんな島時間だから、遅いんだよ。』
そういってビールを勧められた。他の人達も、着いた順に座って、すぐにビールを飲み始
めている。なんとなく、こういう会の集まりでは、一応皆が集まって、はい、では乾杯、
という合図で飲みが始まる、というものだと思っていたので、いきなり飲むのもなあ、、
なんて思っていたのだが、まあこういうのものなんだろうと、勝手に飲むことにした。
これが島のスタイルなんだろうな、なんかざっくばらんでいいな、なんておもいつつ
勧められるままに飲んだ。
そのうち人が集まり始め、来る人達みんなに紹介され、どんどん酒を勧められた。
もちろん奄美の黒糖焼酎だ。これがまたうまいのだ。回りの人達に島の話をたっぷり
聞いて、そのうち唄を唄い始める人がいたり、踊り始めたり、まあにぎやかなこと!
いいなあ、、こういう人達がいる島なんだから、良いところに違いない!
帰りにはポケットにいっぱいの名刺と島の人達の電話番号をもらって、帰路についた。
いいなあ、、、島の人、、いいなあ、、、
こうして島への旅の準備は続くのでした。

旅の始まり

その後、沖縄から打ち合わせのために東京へ移動した。
その頃なんとなく気になったのは、あるポスターだった。そのポスターの写真は街角や
雑誌などで何度も目にした。それは元ちとせの『ハイヌミカゼ』というアルバムの
プロモーション用の写真だった。この写真がどういうわけか記憶に残った。
彼女の目がとても印象的だったからだと思う。

そしてある打ち合わせのため、ソニーレコードに行ったときに、社内のあちこちに
貼ってあるのを見た。あ、ソニーのアーティストだったんだ!
打ち合わせが終わったときに、そのディレクターに、
『ねえ、あのCDある?』とたずね、一枚もらってきた。そして聴いた。
『ふ〜〜ん、、、なるほど、、、』
最初の印象は意外と薄かった。そしてロスに戻り、自分のスタジオで作業の合間に
聴いたりしていたのだが、『ふぅ〜ん、、おもしろいな、、』くらいにしか
感じていなかった。それがあるとき、スタジオのソファーに寝転がって何気なく
聴いていたときだった。いきなり心の一番感じる部分に突き刺さった。心をわしづかみに
された。歌詞が心の中にするするとしみ込んだ。彼女の声が身体の中で響いた。
もうそれからはもう彼女の唄のとりこになってしまい、毎日聴いていた。
そのときは、『美しき日本の記憶』というCDのシリーズの第1作目、『川へ帰ろうー
四万十川』をリリースして、しばらくたった頃で、2作目はどこにしようか考えていた
のだが、もう気持ちは決まっていた。
奄美に行こう!
田中一村、喜納昌吉、元ちとせ 。
この三人に導かれるように、僕は奄美への旅を始める。

出会い 2

ちょうど日本で自分のレーベルを立ち上げ、1作目のCD『川へ帰ろうー四万十川』を
リリースした後に、ある仕事で沖縄に行くことになった。僕にとっては初めての沖縄への
旅で、本当に楽しかったのだが、行く前から会いたいと思っていた人がいた。
喜納昌吉さんだ。僕は喜納さんとは面識は無かったのだが、その音楽は大好きで、
特にあの大ヒット曲「花」は何回聞いてもうっとりしてしまうくらい大好きだった。
そんなわけで、喜納さんに会いたかったのだが、もちろんつてもなにもなく、
ただただ、あぁ〜〜会えたらいいなぁ〜〜、くらいに思っていた。
ある日、ひとりで早めの夕食をすませ、国際通りをぶらぶらしていたら、琉球の衣装を
まとった女性が道端でビラ巻きをしていた。一枚もらってみると、喜納さんのライブの
告知だった。
「えっ? どこでやっているの?」とその女の子に聞いたら、
「このビルだよ。」とすぐ前のビルを指さした。
そこは喜納さんが経営する『チャクラ』というライブハウスだったのだ。
もう行くしかないでしょ!
すぐにエレベーターで上がり、入り口で入場料を払い、ライブハウスの中に入った。
沖縄民謡や沖縄舞踊などに続いて、いよいよ喜納昌吉とチャンプルーズの演奏が
始まった。その演奏の素晴らしさ、喜納さんの強烈なオーラ、存在感、グルーブの強さ、
、、、もう完全にノックアウトされたね、ホントに。
chakura_02.jpg
ライブがあまりにも素晴らしかったので、演奏が終わった後、お店の出口あたりで
立ち話をしていた喜納さんを見つけ、話しかけに行った。
『喜納さん、本当に良かったです。素晴らしかったですよ!』
みたいなことを言ったと思う。喜納さんは
『ありがとう。どちらから来られたんですか?お仕事ですか?』と聞くので、
『ロサンゼルスから来ました。沖縄の自然の音を録音しに来たんです。』と答えた。
喜納さんは、『へぇ〜〜、面白いことやってるねえ。ちょっとこっちにおいでよ。』と
側にあったテーブルの方に招いてくれて、ビールをご馳走になり、一緒に飲みながら
話をした。僕が、どんなことをやっているか、とかいろんな話をしたように思う。
そのときは、会いたい、と思っていた人に会えた嬉しさであがってしまい、
何を話したのか忘れてしまったが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。
喜納さんは、沖縄の本当の平和についての思いを話してくれていたのだが、そのときに
『奄美と沖縄が、薩摩に攻められて、めちゃくちゃにされるその前の時代のように、
手をとりあって強い絆をつくらないと、本当の沖縄ー奄美の平和はやってこない。』
ということを、本当に熱く語っていたのだ。
そのとき、僕は奄美大島の位置すら正確に知らなかった頃だったのだが、
奄美かあ、、、ふぅ〜ん、、、そうかあ、、、奄美かあ、、、と、
『奄美大島』という言葉がキーワードのように頭にこびりついた。
tshurts_01a.jpg
↑そのとき喜納さんにもらったTシャツ

↑* Tシャツの表の模様のアップ。大きな丸は地球の意味。白、黒、赤、黄色の
小さな丸は、それぞれの色の人種を表すそうだ。それぞれの人種が地球で平和に
共存する、という意味らしい。
その下にある絵文字は、アメリカインディアンのホピ族に伝わるもので、
このシンプルな文字列は、人類の過去、未来を予言した、壮大な意味が
込められているらしい。
(詳しいことは忘れてしまった。知っている人がいれば教えて欲しい。)

↑* Tシャツの裏。喜納さんのメッセージ。
今ある武器を全部溶かして、それで楽器を作って、平和な世界にしよう、という
強い思いが込められている。
===========================
喜納さんと話をしていて、彼の平和への強い思いと情熱に心をうたれた。
実はもうひとつ喜納さんが言ったことで頭に残っていることがある。
琉球の文化と大和の文化の違いについて話をしているときに、喜納さんがこう言った。
『琉球では、どこの家でも床の間に三線(サンシン)を飾ってあり、人が集まると
それを弾いて唄って踊るんですよ。でも、大和の国では刀を飾るでしょ?
琉球では楽器を飾る。大和では武器を飾る。それが大きな違いなんですよ。』
僕は彼のこの言葉を一生忘れることは無いと思う。
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数日前、僕の長年の友人であり仕事仲間のKさんと用賀の地鶏屋で飲んだ。
Kさんは僕の活動にいつも興味を持ってくれていて、いろいろと的確なアドバイスをくれる。
特に日本の状況があまりよくわからない僕にとって、長年メジャーシーンのどまんなかで
仕事を続けているK氏の意見はいつもとても参考になる。
そのKさんが、僕の屋久島の映像作品 『Memory of the Earth』 を見た感想を
自身のブログに書いてくれていたので、ご紹介したい。
とっても素敵な感想を書いてくれていたのが、本当に嬉しかった!
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出会い

屋久島の話はとりあえず一段落、ということでいよいよ奄美大島の話を
しようと思う。実は今まで奄美の話をしたくてウズウズしていたのだ。
奄美大島は僕にとっては特別な場所。強烈な縁を感じる島。
まるで自分の故郷のように感じることもある。それほど大好きな島だ。
奄美の話を始めると長くなりそうだなあ・・・・

まず、奄美との出会いからお話しよう。
さかのぼること20数年前、まだアメリカに移り住み始めて数年が経ったころだった。
久しぶりに日本に帰ってきたときに、鹿児島に住む姉を訪ねていった。
姉は絵が好きで、たまたま天文館のデパートの中にあるギャラリーで、ある画家の
展覧会をやっているというので、連れられていった。それは田中一村の絵画展だった。
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田中一村という画家は、49才だか50才だかのときに奄美大島に渡り、その自然の
美しさに魅了され奄美に永住することを決心し、奄美の自然を題材にした絵を
極貧の生活の中で描き続け、奄美で死んだ画家だ。
一村の絵は、日本画の手法と緻密さを持ちながら、日本画とは思えないほど
カラフルで、強烈なオーラを発していた。僕はいっぱつで虜になり、帰りに姉が
画集を買ってくれた。その画集をロサンゼルスに持ち帰り、折りあるごとにひっぱり
だしては眺めていた。

その画集はあるとき友人に貸したまま返してもらえず、そのうち画集のことも
忘れていたときに、ある出会いからまた奄美大島のことを思い出すことになる。