奄美大島への旅

奄美再び!

昨日から、奄美大島に来ている。
いよいよ僕のCD、『AMAMI』『Nagi』『Canoe Trip』の発売日が明後日ということで、
島でお世話になった方々にCDの完成の報告とお礼をしたくて島にきている。
最初は個人的な旅行の予定だったのだが、奄美群島広域事務組合の松原さんの
はからいで、明後日の発売日には大島支庁の中の記者クラブで、地元の新聞、
テレビ、ラジオの記者の方々を集めての記者会見を開いていただくことになった。
松原さんとは愛・地球博での奄美プロジェクト以来のお付き合いで、僕のCDの
発売に関してもとても力を貸して下さっている。
愛・地球博の奄美プロジェクトの中核を担った「奄美応援団」も、地球博の後も
勢いの衰えることなく、むしろパワーアップしつつ活動を展開していくようで、
僕の奄美との関わりもさらに深いものになっていくような予感がしている。
どうしてこんなに奄美と深く関わっていくのだろう・・・?
わからない。それは奄美応援団の方々にしてもそうだと思う。
しかも奄美応援団の全員が、奄美以外の土地の出身者だ。
ひょっとしたらみんな奄美のDNA を身体の奥に秘めているのかもしれない。
そういう奄美のDNA を秘めたヤマトンチュ(内地の人間)達が、今、奄美のために
恩返しをするときが来たのかもしれない。
そう思うとますます奄美に対する思いが広がっていくようなそんな気がする。
よし!今晩も黒糖焼酎だ!

『AMAMI』プレ・リリース盤のお知らせ 2

  
↑この美しい写真は奄美在住の写真家、西田テル子さんが撮影
前回『AMAMI』のプレ・リリース盤のお知らせの後、予想を越えるお申し込みを
いただき本当にありがとうございました。
おかげさまで最初に用意したものは、完売いたしました。
それ以降も多くの方から「欲しい」とご連絡いただき、新たにご用意することにしました。
ご希望の方はどうか早めにお申し込み下さい。
*CDの試聴はこちらから*
ご希望の方は、
お名前(ふりがな) 
郵便番号
住所
電話番号
e-mail アドレス
以上をご記入の上、info@joeokuda.com までメールでご注文下さい。
料金は、CD価格¥2000、送料+郵便代引き手数料¥500、
合計¥2500 となります。
尚、今回も数に限りがありますので、
ご希望の方はお早めにお申し込み下さい。

朝崎さんとの電話

cd-utaba.jpg
朝崎郁恵さんと電話で話した。本当に久しぶりのことだった。僕のCD『Amami』を
聴かれた感想を友人からメールで伝え聞き、いてもたってもいられなくなって電話した。
そのメールの内容は本当に飛び上がるほど嬉しいことが書いてあった。
『ジョーさんのCD「AMAMI」のことも話していました。「今ぬ風雲」がうっすらと
波の音の向こうから響いてくるのを聞いて「神の声のようだね」と言ってました。』
もう涙が出るほど嬉しかった。
すぐに電話して、あらためてCDの感想をうかがった。朝崎さんは
『奥田さん、時間がかかりましたね〜(笑) でもそのおかげで素晴らしいCDに
なりましたね。これを聴くと私の故郷のことを思い出して涙が出そうになりますよ。
そして、最後のシーン、いいですね〜 最高ですよ。私もライブでこういうふうに
したいですね。』
嬉しくて涙が出た。
amamicd_s.jpg
CD最後のシーン、9.Asayake 。
このシーンは僕が最もやりたかったシーンで、全ては、ここへ集約するために
逆算して構成した。すべてはこのシーンのためにあったと言っていいかもしれない。
ただ、朝崎さんがどう思われるかというのだけが気掛かりだった。
良かった〜! 気に入って下さった! もうそれだけで、すべてが報われたような
気がした。

CD『Amami』プレリリースのお知らせ


↑この美しい写真は奄美在住の写真家、西田テル子さんが撮影しました。
すごい写真でしょ!!
やっと、、、ようやく、、、遂に、、、奄美大島をテーマにしたCD『Amami』が
完成しました。正式なリリースはまだなのですが、パイロット盤とでもいいますか、
プレリリース盤をご希望の方に販売することにしました。
ご希望の方は、
お名前(ふりがな) 
郵便番号
住所
電話番号
e-mail アドレス
以上をご記入の上、info@joeokuda.com までメールでご注文下さい。
料金は、CD価格¥2000、送料+郵便代引き手数料¥500、
合計¥2500 となります。
尚、パイロット盤ということで、非常に数に限りがありますので、
ご希望の方はお早めにお申し込み下さい。

初日

セントラル楽器を出て左に行き、商店街の十字路を越え、さらにまっすぐ100m ほど
行くと、右手に『アルケディア』の看板が見えた。
『こんちわ〜』『はぁ〜〜い』
店長さんとおぼしき人が奥から返事をしながら出てきた。
最初、『ん? 見慣れない風采だな、、、だれかな?』
といった表情でこちらを見ていたので、
「そこのセントラル楽器の店員さんに聞いて来ました。」
というと、ああ、そうですか、と表情が和らいだ。彼が店長のかわぎりさんだった。
どうぞ、と勧められたイスに腰かけ、前掛けをかけてくれた。
かわぎり「観光ですか?」
僕「いえ、仕事なんです。」
かわぎり「どんなお仕事されてらっしゃるんですか?」
僕「自然の音を録音しに来ました。」
かわぎり「はぁ〜〜??」
詳しく説明すると、「へえ〜面白いですね〜」と言って笑っていた。
それからいろいろと奄美の街のことや、山の話などで盛り上がって、楽しい時間を
すごしているうちに、髪は切り終わった。
僕がいろいろと奄美のことを聞くものだから、かわぎりさんはこう言った。
「ここから来た道を少し戻ると、『あまみ庵』という古本屋さんがありますよ。
そこに森本さんというおやじさんがいるから、僕からの紹介と言えばいいから
いってごらん。彼は奄美の自然のことは詳しいから。」
と教えてくれた。お礼を言って、早速『あまみ庵』に行ってみることにした。
アルケディアからは50m と離れていない距離にあり、すぐに見つかった。
2階建てで、1階にはCDや新刊本が置いてあり、2階が古本コーナーで、森本さんは
2階にいると聞いていたので、入ってすぐの細い階段を2階へと上がった。
「こんにちわ〜。森本さんですか?」
レジの前に座っていたおやじさんに声をかけたら、その人が森本さんだった。
「そこのアルケディアのかわぎりさんに教えてもらったんですけど・・・」
と話を切り出し、自分が何をやっているかを説明して、奄美のことを教えて下さい、
というと、やっぱり「へぇ〜〜面白いことやってるね〜」と笑いながら、
何冊かの本を見せてくれた。ひとつは、常田守さんという方が撮られた写真集だった。
もうひとつは、浜田康作さんという方の写真集『うたばうたゆん』だった。
       
いろいろと話をしているうちに、森本さんが、「あ、そうだ、常田さんを紹介して
あげるよ。これ電話番号。僕から聞いた、っていってかけてごらん。」
と言って、電話番号をメモに書いてくださった。
「ありがとうございます。早速かけてみます。」
「じゃあ、この電話を使ったらいい。」と店の電話を貸してくれた。
あいにく常田さんは不在で、メッセージを残しておいた。
2冊の写真集を買って、森本さんにお礼をいい、店を出た。
そろそろ夕方になっていて、ロスの奄美会の方が紹介してくれた永田さんという方と
夜会うことになっていたので、ホテルに戻って支度をすることにした。
約束の時間にロビーに降りると、その方ともうひとり若い男性がいた。
その若い男性は、『観光ネットワーク奄美』という会社の社長、西條さんだった。
永田さんはちょっと急用が入ったので、西條さんと飲んでいてください、後で
合流します、とおっしゃって、先に帰られた。

↑ビタミンハウス
僕らはホテルを出て、夜の名瀬の街をぶらぶら歩き、『びたみんはうす』という
こじんまりした若者向けの居酒屋に入った。そこには西條さんのお友達がすでに
飲んでいて、合流する形になった。
う〜ん、初日からどんどんいろんな人に会うものだな、と思いつつ、
黒糖焼酎を飲んだ。

到着

いかんいかん! すっかりさぼり癖がついてしまった。さんざん前フリをしたあげく、
まだ奄美にたどり着きもしてないぞ。続けて読んでくださっている皆様、ごめんなさい。
というわけで、2年前の1月31日、生まれて初めての奄美大島に到着するのです。
空港についてまず思ったこと。『暑い!』
その日はとてもお天気のいい日で、1月末とは思えない暖かさ。早速ジャケットを
脱いで、袖無しTシャツ一枚になる。ロスの奄美会の方が手配して下さったホテルの
送迎バスが待っていてくれて、それに乗り込み、一路名瀬の街へと向う。
名瀬は奄美で一番大きな街で、ここには普通の街にあるものはなんでもある。
道路標識のローマ字表記だと、『Naze』となっているので、『なぜ』と発音するのが
正しいようだが、多くのお年寄りは『なせ』と濁らない。昔は『なせ』と言っていたが
町名変更みたいな感じで『なぜ』となったそうだ。
僕は音がきれいなので、それ以降ずっと『なせ』ということにしている。

↑名瀬の商店街の入り口。この日は雨。というか奄美は雨が多い。
ホテルにチェックインして、早速名瀬の街を徘徊することにした。
商店街をうろうろしていると、「セントラル楽器」という看板をすぐに見つけた。
『あ!ここかぁ!』
僕はこのセントラル楽器には是非来たいと思っていたのだ。というのは、ネットで調べて
いるときに見つけたのだが、ここは奄美の島唄のCDを沢山出していて、元ちとせが
15才の時に録音したCDも出していたのだ。そのCDは、ロスの奄美会の方が偶然
持っていて、お借りして聴いたのだが、本当に素晴らしかった。この唄を僕の奄美のCD
の中で使いたいなと思って、その交渉にセントラル楽器に行こうと決めていたのだ。
こんなに簡単に見つけてしまうとはなあ、、、、と思いつつ、心の準備も出来ていないし
などと迷いつつ、え〜い!いっちゃえ! と思いきり、お店の入り口をくぐった。
入り口を入ると、三線(サンシン=奄美、沖縄の三味線)が置いてある以外は、
普通の地方都市の商店街にある楽器店とかわらない雰囲気だった。
若い女性の店員さんがいたので、
『あの〜おそれいりますが、社長さんいらっしゃいますか?』
と訊ねると、今、出張中で奄美にいらっしゃらないとのこと。
そっか、まあいいや、心の準備も出来てないしな、、、とちょっとホッとしつつ、
店内をうろうろ。一角に島唄のコーナーがあり、CD、カセットがどっさり置いて
あった。へ〜〜、島唄歌う人って、結構いるんだなあ、、、あ、元ちとせのもあった、
おっ、若い人もいるなあ、、でも年配の人も多いなあ、、、などなど、思いつつ、
中村瑞希(なかむらみずき)というアーティストのCDを買うことにした。
ジャケットの写真が可愛かったからだ。
レジでお金を払いながら、さっき話した彼女に街のことを少し聞いた。
髪を切りたかったので、このへんにお勧めのサロンがないか訊ねた。
彼女は『アルカディア』という店を勧めてくれて、丁寧に道順を教えてくれた。
そこはその楽器屋さんからほんの5分くらいのところだったので、早速行ってみる
ことにした。

↑アルカディア。写真を撮った日は臨時休業だった。

旅の始まり2

奄美への旅を決めた僕は、早速奄美について調べ始めた。といってもロスからでは
資料もなかなか手に入らなかったが、それでもネットでわかる範囲で調べてみた。
そうこうしているうちに、僕の友人が
「ロスに『奄美会』という奄美大島出身者の会があるのご存知ですか?
私の友人が幹事さんをやっているのでご紹介しましょうか?」
と申し出てくれた。
「是非お願いします。」
数日後、モントレーパークにお住まいの奄美会の方とコーヒーショップでお会いし、
いろいろと島のお話をうかがった。そしてその方が、
『来週奄美会の新年会があるからそれに来るといいよ。いろんな人に話が聞けるから。』
『えっ? ほんとにいいんですか?』
『ああ、いいよいいよ。幹事さんに言っておくから。』

そんなわけで、ガーディナの鍋料理屋でひらかれた奄美会の新年会に出席させてもらった
のだが、それがまたかなりブッ飛んでて面白かった。
僕は友人に連れられて、やや早めに会場に着いたのだが、まだ数名の方しかいらっしゃら
なくて、所在なさ気に座っていると、
『あなたたち、、、ああ、うんうん聞いてるよ。まあ飲んで待ってましょう。
みんな島時間だから、遅いんだよ。』
そういってビールを勧められた。他の人達も、着いた順に座って、すぐにビールを飲み始
めている。なんとなく、こういう会の集まりでは、一応皆が集まって、はい、では乾杯、
という合図で飲みが始まる、というものだと思っていたので、いきなり飲むのもなあ、、
なんて思っていたのだが、まあこういうのものなんだろうと、勝手に飲むことにした。
これが島のスタイルなんだろうな、なんかざっくばらんでいいな、なんておもいつつ
勧められるままに飲んだ。
そのうち人が集まり始め、来る人達みんなに紹介され、どんどん酒を勧められた。
もちろん奄美の黒糖焼酎だ。これがまたうまいのだ。回りの人達に島の話をたっぷり
聞いて、そのうち唄を唄い始める人がいたり、踊り始めたり、まあにぎやかなこと!
いいなあ、、こういう人達がいる島なんだから、良いところに違いない!
帰りにはポケットにいっぱいの名刺と島の人達の電話番号をもらって、帰路についた。
いいなあ、、、島の人、、いいなあ、、、
こうして島への旅の準備は続くのでした。

旅の始まり

その後、沖縄から打ち合わせのために東京へ移動した。
その頃なんとなく気になったのは、あるポスターだった。そのポスターの写真は街角や
雑誌などで何度も目にした。それは元ちとせの『ハイヌミカゼ』というアルバムの
プロモーション用の写真だった。この写真がどういうわけか記憶に残った。
彼女の目がとても印象的だったからだと思う。

そしてある打ち合わせのため、ソニーレコードに行ったときに、社内のあちこちに
貼ってあるのを見た。あ、ソニーのアーティストだったんだ!
打ち合わせが終わったときに、そのディレクターに、
『ねえ、あのCDある?』とたずね、一枚もらってきた。そして聴いた。
『ふ〜〜ん、、、なるほど、、、』
最初の印象は意外と薄かった。そしてロスに戻り、自分のスタジオで作業の合間に
聴いたりしていたのだが、『ふぅ〜ん、、おもしろいな、、』くらいにしか
感じていなかった。それがあるとき、スタジオのソファーに寝転がって何気なく
聴いていたときだった。いきなり心の一番感じる部分に突き刺さった。心をわしづかみに
された。歌詞が心の中にするするとしみ込んだ。彼女の声が身体の中で響いた。
もうそれからはもう彼女の唄のとりこになってしまい、毎日聴いていた。
そのときは、『美しき日本の記憶』というCDのシリーズの第1作目、『川へ帰ろうー
四万十川』をリリースして、しばらくたった頃で、2作目はどこにしようか考えていた
のだが、もう気持ちは決まっていた。
奄美に行こう!
田中一村、喜納昌吉、元ちとせ 。
この三人に導かれるように、僕は奄美への旅を始める。

出会い 2

ちょうど日本で自分のレーベルを立ち上げ、1作目のCD『川へ帰ろうー四万十川』を
リリースした後に、ある仕事で沖縄に行くことになった。僕にとっては初めての沖縄への
旅で、本当に楽しかったのだが、行く前から会いたいと思っていた人がいた。
喜納昌吉さんだ。僕は喜納さんとは面識は無かったのだが、その音楽は大好きで、
特にあの大ヒット曲「花」は何回聞いてもうっとりしてしまうくらい大好きだった。
そんなわけで、喜納さんに会いたかったのだが、もちろんつてもなにもなく、
ただただ、あぁ〜〜会えたらいいなぁ〜〜、くらいに思っていた。
ある日、ひとりで早めの夕食をすませ、国際通りをぶらぶらしていたら、琉球の衣装を
まとった女性が道端でビラ巻きをしていた。一枚もらってみると、喜納さんのライブの
告知だった。
「えっ? どこでやっているの?」とその女の子に聞いたら、
「このビルだよ。」とすぐ前のビルを指さした。
そこは喜納さんが経営する『チャクラ』というライブハウスだったのだ。
もう行くしかないでしょ!
すぐにエレベーターで上がり、入り口で入場料を払い、ライブハウスの中に入った。
沖縄民謡や沖縄舞踊などに続いて、いよいよ喜納昌吉とチャンプルーズの演奏が
始まった。その演奏の素晴らしさ、喜納さんの強烈なオーラ、存在感、グルーブの強さ、
、、、もう完全にノックアウトされたね、ホントに。
chakura_02.jpg
ライブがあまりにも素晴らしかったので、演奏が終わった後、お店の出口あたりで
立ち話をしていた喜納さんを見つけ、話しかけに行った。
『喜納さん、本当に良かったです。素晴らしかったですよ!』
みたいなことを言ったと思う。喜納さんは
『ありがとう。どちらから来られたんですか?お仕事ですか?』と聞くので、
『ロサンゼルスから来ました。沖縄の自然の音を録音しに来たんです。』と答えた。
喜納さんは、『へぇ〜〜、面白いことやってるねえ。ちょっとこっちにおいでよ。』と
側にあったテーブルの方に招いてくれて、ビールをご馳走になり、一緒に飲みながら
話をした。僕が、どんなことをやっているか、とかいろんな話をしたように思う。
そのときは、会いたい、と思っていた人に会えた嬉しさであがってしまい、
何を話したのか忘れてしまったが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。
喜納さんは、沖縄の本当の平和についての思いを話してくれていたのだが、そのときに
『奄美と沖縄が、薩摩に攻められて、めちゃくちゃにされるその前の時代のように、
手をとりあって強い絆をつくらないと、本当の沖縄ー奄美の平和はやってこない。』
ということを、本当に熱く語っていたのだ。
そのとき、僕は奄美大島の位置すら正確に知らなかった頃だったのだが、
奄美かあ、、、ふぅ〜ん、、、そうかあ、、、奄美かあ、、、と、
『奄美大島』という言葉がキーワードのように頭にこびりついた。
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↑そのとき喜納さんにもらったTシャツ

↑* Tシャツの表の模様のアップ。大きな丸は地球の意味。白、黒、赤、黄色の
小さな丸は、それぞれの色の人種を表すそうだ。それぞれの人種が地球で平和に
共存する、という意味らしい。
その下にある絵文字は、アメリカインディアンのホピ族に伝わるもので、
このシンプルな文字列は、人類の過去、未来を予言した、壮大な意味が
込められているらしい。
(詳しいことは忘れてしまった。知っている人がいれば教えて欲しい。)

↑* Tシャツの裏。喜納さんのメッセージ。
今ある武器を全部溶かして、それで楽器を作って、平和な世界にしよう、という
強い思いが込められている。
===========================
喜納さんと話をしていて、彼の平和への強い思いと情熱に心をうたれた。
実はもうひとつ喜納さんが言ったことで頭に残っていることがある。
琉球の文化と大和の文化の違いについて話をしているときに、喜納さんがこう言った。
『琉球では、どこの家でも床の間に三線(サンシン)を飾ってあり、人が集まると
それを弾いて唄って踊るんですよ。でも、大和の国では刀を飾るでしょ?
琉球では楽器を飾る。大和では武器を飾る。それが大きな違いなんですよ。』
僕は彼のこの言葉を一生忘れることは無いと思う。
sanshin.jpg

出会い

屋久島の話はとりあえず一段落、ということでいよいよ奄美大島の話を
しようと思う。実は今まで奄美の話をしたくてウズウズしていたのだ。
奄美大島は僕にとっては特別な場所。強烈な縁を感じる島。
まるで自分の故郷のように感じることもある。それほど大好きな島だ。
奄美の話を始めると長くなりそうだなあ・・・・

まず、奄美との出会いからお話しよう。
さかのぼること20数年前、まだアメリカに移り住み始めて数年が経ったころだった。
久しぶりに日本に帰ってきたときに、鹿児島に住む姉を訪ねていった。
姉は絵が好きで、たまたま天文館のデパートの中にあるギャラリーで、ある画家の
展覧会をやっているというので、連れられていった。それは田中一村の絵画展だった。
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田中一村という画家は、49才だか50才だかのときに奄美大島に渡り、その自然の
美しさに魅了され奄美に永住することを決心し、奄美の自然を題材にした絵を
極貧の生活の中で描き続け、奄美で死んだ画家だ。
一村の絵は、日本画の手法と緻密さを持ちながら、日本画とは思えないほど
カラフルで、強烈なオーラを発していた。僕はいっぱつで虜になり、帰りに姉が
画集を買ってくれた。その画集をロサンゼルスに持ち帰り、折りあるごとにひっぱり
だしては眺めていた。

その画集はあるとき友人に貸したまま返してもらえず、そのうち画集のことも
忘れていたときに、ある出会いからまた奄美大島のことを思い出すことになる。