Author Archive: Joe

旅の始まり

その後、沖縄から打ち合わせのために東京へ移動した。
その頃なんとなく気になったのは、あるポスターだった。そのポスターの写真は街角や
雑誌などで何度も目にした。それは元ちとせの『ハイヌミカゼ』というアルバムの
プロモーション用の写真だった。この写真がどういうわけか記憶に残った。
彼女の目がとても印象的だったからだと思う。

そしてある打ち合わせのため、ソニーレコードに行ったときに、社内のあちこちに
貼ってあるのを見た。あ、ソニーのアーティストだったんだ!
打ち合わせが終わったときに、そのディレクターに、
『ねえ、あのCDある?』とたずね、一枚もらってきた。そして聴いた。
『ふ〜〜ん、、、なるほど、、、』
最初の印象は意外と薄かった。そしてロスに戻り、自分のスタジオで作業の合間に
聴いたりしていたのだが、『ふぅ〜ん、、おもしろいな、、』くらいにしか
感じていなかった。それがあるとき、スタジオのソファーに寝転がって何気なく
聴いていたときだった。いきなり心の一番感じる部分に突き刺さった。心をわしづかみに
された。歌詞が心の中にするするとしみ込んだ。彼女の声が身体の中で響いた。
もうそれからはもう彼女の唄のとりこになってしまい、毎日聴いていた。
そのときは、『美しき日本の記憶』というCDのシリーズの第1作目、『川へ帰ろうー
四万十川』をリリースして、しばらくたった頃で、2作目はどこにしようか考えていた
のだが、もう気持ちは決まっていた。
奄美に行こう!
田中一村、喜納昌吉、元ちとせ 。
この三人に導かれるように、僕は奄美への旅を始める。

出会い 2

ちょうど日本で自分のレーベルを立ち上げ、1作目のCD『川へ帰ろうー四万十川』を
リリースした後に、ある仕事で沖縄に行くことになった。僕にとっては初めての沖縄への
旅で、本当に楽しかったのだが、行く前から会いたいと思っていた人がいた。
喜納昌吉さんだ。僕は喜納さんとは面識は無かったのだが、その音楽は大好きで、
特にあの大ヒット曲「花」は何回聞いてもうっとりしてしまうくらい大好きだった。
そんなわけで、喜納さんに会いたかったのだが、もちろんつてもなにもなく、
ただただ、あぁ〜〜会えたらいいなぁ〜〜、くらいに思っていた。
ある日、ひとりで早めの夕食をすませ、国際通りをぶらぶらしていたら、琉球の衣装を
まとった女性が道端でビラ巻きをしていた。一枚もらってみると、喜納さんのライブの
告知だった。
「えっ? どこでやっているの?」とその女の子に聞いたら、
「このビルだよ。」とすぐ前のビルを指さした。
そこは喜納さんが経営する『チャクラ』というライブハウスだったのだ。
もう行くしかないでしょ!
すぐにエレベーターで上がり、入り口で入場料を払い、ライブハウスの中に入った。
沖縄民謡や沖縄舞踊などに続いて、いよいよ喜納昌吉とチャンプルーズの演奏が
始まった。その演奏の素晴らしさ、喜納さんの強烈なオーラ、存在感、グルーブの強さ、
、、、もう完全にノックアウトされたね、ホントに。
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ライブがあまりにも素晴らしかったので、演奏が終わった後、お店の出口あたりで
立ち話をしていた喜納さんを見つけ、話しかけに行った。
『喜納さん、本当に良かったです。素晴らしかったですよ!』
みたいなことを言ったと思う。喜納さんは
『ありがとう。どちらから来られたんですか?お仕事ですか?』と聞くので、
『ロサンゼルスから来ました。沖縄の自然の音を録音しに来たんです。』と答えた。
喜納さんは、『へぇ〜〜、面白いことやってるねえ。ちょっとこっちにおいでよ。』と
側にあったテーブルの方に招いてくれて、ビールをご馳走になり、一緒に飲みながら
話をした。僕が、どんなことをやっているか、とかいろんな話をしたように思う。
そのときは、会いたい、と思っていた人に会えた嬉しさであがってしまい、
何を話したのか忘れてしまったが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。
喜納さんは、沖縄の本当の平和についての思いを話してくれていたのだが、そのときに
『奄美と沖縄が、薩摩に攻められて、めちゃくちゃにされるその前の時代のように、
手をとりあって強い絆をつくらないと、本当の沖縄ー奄美の平和はやってこない。』
ということを、本当に熱く語っていたのだ。
そのとき、僕は奄美大島の位置すら正確に知らなかった頃だったのだが、
奄美かあ、、、ふぅ〜ん、、、そうかあ、、、奄美かあ、、、と、
『奄美大島』という言葉がキーワードのように頭にこびりついた。
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↑そのとき喜納さんにもらったTシャツ

↑* Tシャツの表の模様のアップ。大きな丸は地球の意味。白、黒、赤、黄色の
小さな丸は、それぞれの色の人種を表すそうだ。それぞれの人種が地球で平和に
共存する、という意味らしい。
その下にある絵文字は、アメリカインディアンのホピ族に伝わるもので、
このシンプルな文字列は、人類の過去、未来を予言した、壮大な意味が
込められているらしい。
(詳しいことは忘れてしまった。知っている人がいれば教えて欲しい。)

↑* Tシャツの裏。喜納さんのメッセージ。
今ある武器を全部溶かして、それで楽器を作って、平和な世界にしよう、という
強い思いが込められている。
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喜納さんと話をしていて、彼の平和への強い思いと情熱に心をうたれた。
実はもうひとつ喜納さんが言ったことで頭に残っていることがある。
琉球の文化と大和の文化の違いについて話をしているときに、喜納さんがこう言った。
『琉球では、どこの家でも床の間に三線(サンシン)を飾ってあり、人が集まると
それを弾いて唄って踊るんですよ。でも、大和の国では刀を飾るでしょ?
琉球では楽器を飾る。大和では武器を飾る。それが大きな違いなんですよ。』
僕は彼のこの言葉を一生忘れることは無いと思う。
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数日前、僕の長年の友人であり仕事仲間のKさんと用賀の地鶏屋で飲んだ。
Kさんは僕の活動にいつも興味を持ってくれていて、いろいろと的確なアドバイスをくれる。
特に日本の状況があまりよくわからない僕にとって、長年メジャーシーンのどまんなかで
仕事を続けているK氏の意見はいつもとても参考になる。
そのKさんが、僕の屋久島の映像作品 『Memory of the Earth』 を見た感想を
自身のブログに書いてくれていたので、ご紹介したい。
とっても素敵な感想を書いてくれていたのが、本当に嬉しかった!
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出会い

屋久島の話はとりあえず一段落、ということでいよいよ奄美大島の話を
しようと思う。実は今まで奄美の話をしたくてウズウズしていたのだ。
奄美大島は僕にとっては特別な場所。強烈な縁を感じる島。
まるで自分の故郷のように感じることもある。それほど大好きな島だ。
奄美の話を始めると長くなりそうだなあ・・・・

まず、奄美との出会いからお話しよう。
さかのぼること20数年前、まだアメリカに移り住み始めて数年が経ったころだった。
久しぶりに日本に帰ってきたときに、鹿児島に住む姉を訪ねていった。
姉は絵が好きで、たまたま天文館のデパートの中にあるギャラリーで、ある画家の
展覧会をやっているというので、連れられていった。それは田中一村の絵画展だった。
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田中一村という画家は、49才だか50才だかのときに奄美大島に渡り、その自然の
美しさに魅了され奄美に永住することを決心し、奄美の自然を題材にした絵を
極貧の生活の中で描き続け、奄美で死んだ画家だ。
一村の絵は、日本画の手法と緻密さを持ちながら、日本画とは思えないほど
カラフルで、強烈なオーラを発していた。僕はいっぱつで虜になり、帰りに姉が
画集を買ってくれた。その画集をロサンゼルスに持ち帰り、折りあるごとにひっぱり
だしては眺めていた。

その画集はあるとき友人に貸したまま返してもらえず、そのうち画集のことも
忘れていたときに、ある出会いからまた奄美大島のことを思い出すことになる。

『 美しき地球の記憶 』

屋久島から東京へ移動し、映像と音の編集作業に入り、音楽を作り・・・
あっという間に1ヶ月の時間が経過した。本当は長くても2週間くらいで
終わらせる仕事だったのだが、間にゴールデンウィークがはさまったり、
処々の事情で、スケジュールがどんどん後ろにずれこんでしまった。
でも、お陰でゆっくりいろんなことを考えたり、試したりも出来たので、
結果的にはすべて良い方向に進んだと思う。
そういう時間を与えてもらえた幸運に感謝している。
それに、本来であれば、何倍ものバジェットが無ければ出来ないことを、やらせて
くれたスタジオビビッドの協力無くしては、この作品は生まれなかったと思う。
そして、なにより、僕を信頼してくれて、まったく自由に思い通りに作品を作らせて
くれた、クライアント=鹿島建設には、心から感謝している。

この作品のタイトルは、『Memory of the Earth』邦題は『美しき地球の記憶』と
つけた。何世代も先の僕の孫達が、おそらく今とはまったく様変わりしているで
あろうこの地球で、この作品を見て、ああ、あの時代の地球はこんなに美しかったのだ、
ということを伝えたくて、この作品を作った。これは全ての僕の作品に共通する
テーマだ。次の世代に、今の時代の地球の美しさを伝える。
それが自分の仕事だと思っている。
『美しき地球の記憶』はハイビジョン映像で撮影され、音は今可能な最高レベルの
デジタル録音で収録した。それだけに、このクォリティーを再現出来る環境が
整ったところで、より多くの方々に見ていただきたいと思っている。
どうすれば良いのか、それはこれから考えていこうと思っているのだが、
何か良いアイデアがあれば、私信メールででもご提案いただければと思う。
またこの作品は東京メトロ有楽町線、護国寺駅の側にある鹿島建設の『目白プレイス
マンションギャラリー』で今月末より、一年間流される。http://www.nomu.com/new/mejiroplace/
お近くの方はそちらの方に、どうかお立ちよりいただきたい。

その12

屋久島の風景です。

↑紀元杉近くの山の上から。
これから朝日が出てこようという朝焼けを木々のすきまから見たところ。
この夜の世界から朝の世界に移り変わる時間帯が一番好きだ。

↑前の写真を撮った後、山の上で録音して、その帰り。
林道が開けたところからから見た朝の風景。
朝日は顔を出してから登っていくのがすごく早いように感じる。
これ、日の出からまた1時間くらいしか経ってない頃だよ。もうこんなに日が高いもんね。

↑まだ日が高い遅めの午後。雲の間から光が放射線状に差してとてもきれいだった。
右下の岩の上に座っているのは、小笠原から遊びに来たという女の子。
僕が録音している間中、ず〜っと海をながめていた。

↑日が落ちた後の薄明かりのいなか浜。
この日は雲の中に日が落ちていった。淡い色合いの夕焼け。
真っ赤な夕焼けもきれいだけど、こういう色合いの夕焼けも気分がしっとりして
気持ちいいね。

その11

自然音の録音を始めてもうずいぶんになるが、人に自然音のCDを作っています、
というと必ず訊かれることがあった。
『映像はないのですか?』
そう言われるたびに、
『はい。僕は音を聴いてもらいたいので、絵はあえてつけないことにしています。』
と答えていた。
それはもちろん本音なのだが、もともと映像も大好きなので、いつかは映像の
ついた作品を作りたいとは思っていた。だけど、自然の映像の難しさも判っていた。
というのは、それまで数多くの自然を扱ったビデオやDVDを見ていたが、心に
残る物がなにもなかった。
どうしてビデオで撮るとあの美しい自然の感動がちゃちいものになってしまうのだろう?
どうして、夜中の天気予報のように、安っぽいものになってしまうのだろう?
自然の美しさを映像でも伝えたい、いったいどうすれば・・・
これは長年の課題だった。そして自分なりに考えて、いろんな方法を模索していた。
ひとつの鍵は、目から入る情報を制限することだった。
人間の知覚は、正確には解らないが、相当のウェートが目から入る情報に偏る傾向に
ある。それは知っていた。人間は目から入る情報を重視する。
目と耳と両方から入る情報に対しても、その注意力のほとんどは目に集中する。
僕はなんとかもっと音を聴いてもらいたかった。
あるとき、自然の写真ばかり撮っているカメラマンの作品のスライドショーを
見た。そのときバックで音楽も流れていたのだが、それはそれは素晴らしい作品だった。
自然の美しさがストレートに心に届いてきた。写真は動かない。だからいいのだ。
そのことに気がついた。ビデオは情報量が多過ぎるのだ。ビデオを作る人は映像
だけで、見るひとが退屈しないように、数多くのカットを使う。
それは自然を楽しむテンポ感とはかけ離れているのだ。
カット数を極力減らし、ひとつのカットを出来るだけ長く見せる。カメラを
動かさない。そうすることで、目から入る情報量を制限し、目と耳との情報量の
バランスをとってみようと思った。
今回の屋久島のビデオではそれを初めて試すことが出来た。
多くの人が共鳴してくれた。感動してくれた。それが嬉しかった。
ハイビジョンの映像は素晴らしく美しい。静止したカットでもじっと見ていても
飽きるどころか、引き込まれていくほど美しい。そこに自然音でストーリを構成し、
音楽を少しだけ加えてみた。そこには自分が長年頭のなかで思い描いていた世界が
広がっていた。

大川の滝を下ったところにある小さな入り江での夕日。
素晴らしく美しかった。

そのじゅう

今日は屋久島の美しい風景をご紹介します。

この日の夕方は、宿の裏の川が、ホントに水が流れているのかな?
って思うくらい穏やかで、鏡のよう。
そこに暮れていく空が映り込んで、メチャクチャきれいだった。

そのときの空はこんな感じ。

翌朝、早起きをして、ひとりで山に録音に出かけた。
朝といっても4時くらいなので、まだ真っ暗。そのときに出ていたお月様。
この写真は、屋久島ビデオ作品 「memory of the earth」 の
エンディングに使った。

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僕が東京に来てから会った人達が、ブログに僕のことを書いてくれている。
まとめてご紹介します。
    * * * * * * * * * * * * * * * *
渡嘉敷さん
ニューヨークに長年在住されていた他、世界の各地を飛び回っているバリバリの
ビジネスマン。この方のブログはめちゃくちゃ面白くて僕もいつも読ませて
いただいている。
(以下本文)
ジョーさんに初めてお目にかかった瞬間、「あ、俺って仕事で心荒んできてる。
いけない」って思いがつらぬいた。 自然音楽家 ジョー・奥田・・・・

【続き】→ http://blueheaven.exblog.jp/m2005-02-01/#2079088

    * * * * * * * * * * * * * * * *
とかしきなおみさん
渡嘉敷さんの妹さんで、杉並区の区会議員をされている。
強烈なパワーと沖縄を愛する気持ちを持ったスーパーウーマン。
(以下本文)
集会の後、地元で打ち合わせ、久々に晴れたので街頭演説、そしてお通夜に出席
してから、兄の友人の自然音録音家のジョー・奥田さんと兄と3人で、・・・・
【続き】→ http://naomitokas.exblog.jp/d2005-04-16
    * * * * * * * * * * * * * * * *
吉田菜穂子さん
スリランカに強く思いをはせるキャリアウーマン。
仕事の分野は、インテリア、貿易、ボランティアと幅広い活動を
精力的にこなされている。
(以下本文)
今日午後は、ネイチャーサウンドアーティストのジョー奥田さんのスタジオへ
おじゃまし、たっぷりお話を伺いました。ジョーさんの作品を聞くと・・・・
【続き】→ http://ny007.exblog.jp/m2005-04-01/#285983
    * * * * * * * * * * * * * * * *
山川 “bananan8″さん
僕の東京での活動を応援してくださっている方。
某ラジオ局にお勤めで、自然が大好きなひとです。
(以下本文)
自然音楽収集家のジョー奥田さんがジョー奥田ドットコムを立ち上げた。
世界に数人しかいない職業の人で・・・・
【続き】→ http://natsuyam.exblog.jp/i5

そのきゅう

最初の白谷雲水境での山登りのダメージが癒えたころ、我々はもう一度白谷に
行くことにした。喉元すぎれば、、、というやつであろうか、あの辛さを忘れた
わけでは無かったのだが、それにもましてあの美しさに魅せられてしまったのだ。
おのおの前回の経験から学習し、装備に手を加え、持ち物チェックを入念にし、
いざ白谷へ。
前回は雨だったのに、この日はうって変わってドピーカンのいいお天気。
僕的には嬉しいのだが、撮影班はやや不満そう。というのは、音的にいうと
雨の日はあまり鳥が鳴かないので、晴れている方が嬉しいのだが、絵的に
いうと、苔や木々の緑は雨が降っている方が、色が深くて美しい。
なかなか利害が一致しないな、別行動するか、などといいながら、林道を走る。
さて登山口に到着し、重い荷物をよっこらしょと背負い、さあ出発。
最初の10分でまた吐きそうになるかなと思ったら、今回は大丈夫だ。身体が
慣れたのだな。ふんふん、今日は調子がいいぞ、と思っていると、もりもっちゃんが、
『今日はアカン!こらアカンで・・・』としきりに言い出した。
ここ数日の良いお天気が影響して、森が乾いているのだ。苔もややくすんだ
色になっている。雨の日の森の緑のしっとりと深くやわらかい感じを見ているだけに、
カラッと乾いた森はなにかいまいちグッとくるものがない。
それでも山道をどんどん進んで行ったのだが、最初のつり橋を渡ったときに
休憩動議が発令され、荷物を下ろして3人で会議が始まった。
『議長!提案です。今日の森は撮っても意味がないです。』
『議長、この乾いた森を撮るよりも、外に行ってせせらぎを撮りましょう。』
議長であり隊長である僕は決断を迫られた。それでも先に進みたい気持ちも半分、
無理して行って、何も撮れないくらいだったら別のロケーションで何か撮った方が
良いのではと思う気持ち半分。う〜〜〜ん、、、どうしたもんじゃい?
結論は引き返すことになった。
帰り道の3人の足取りが、心なしかルンルンとしているのがわかる。
情けね〜〜〜!

↑こころなしか表情に安堵の色が見て取れる。(笑)