僕は自然音の録音を始めた頃、絶対に夜の森には入らなかった。それは夜の森の怖さを
なんとなくではあるが、知っていたからかもしれない。『夜の森は魔物の世界』と
言われる。ある意味それは正しいと思う。夜の森には夜の森の精がいると思う。
それは自然音の録音を始めたばかりの頃に体験したことが、自分の中で夜の森に
対する畏怖の念として育っていったからだと思う。

それは伊豆大島での出来事だった。
まだ自分でフィールド用の録音機材をそろえたばかりの頃だった。
ある人の紹介で、伊豆大島に住むご夫婦と知りあった。そして僕がやっていることに
とても興味を持たれて、是非大島に遊びに来て下さい、と誘われた。
ひょっとしたらそのときは社交辞令でそう言ってくれたのかもしれないが、
僕はそういうことを真に受ける方だ。来てくれ、と言われたら行ってしまうのだ。
そのご夫婦はとても親切な方達で、社交辞令ではなく、本当に快く向えてくれた。
伊豆大島は人口一万人少々の小さな島だかが、神社やお寺がやたら多い。
その中でも特に気に入った神社があった。小さな神社で、森の奥の方にあるのだが、
なにか自分にぴんと来るものがあったのだろう。そこがとても気に入っていた。
そして、是非満月の夜にその神社で録音したい、と思ったのだ。そしてその夜、
午前4時頃に神社に到着し、木々に囲まれた小さな祠の雨戸を開け、中に入った。
何を考えていたのか、僕はその祠の雨戸を全部取り外し、その真ん中にマイクを
立てた。そしてテープを回し始めた。おかしなことが起きたのはその時だった。
それは、突然ではなく、夜の霧のがやってくるように、ゆっくりとやってきた。
自分がヘンになってきたのだ。まるで自分の中に別の人格が宿ったように、
自分が自分でなく、他の人格が意識を支配し始めた。そして自分が神であると
思い始めた。そして、祠の外を取り囲むように設えられた渡り廊下をゆっくりと
徘徊し始めたのだ。顔は紅潮し、身体が熱くなってきていた。ぐるぐると廊下を
歩き回った後、なんと僕はご神体が奉ってある真正面にどかりと座り込んで
しまった。
そうすると、今度は夜の動物達がぎゃーぎゃーを大きな声をあげ始めた。
そしてだんだん朝の世界が近づいてきた。外は夜の世界と朝の世界の交代劇が
激しいグラデュエーションのように繰り広げられていく。
そうこうするうちに、夜の動物達はねぐらへと戻り、遂には日が昇り、森は鳥達の
さえずりで満たされていく。その一部始終を録音したのだ。
しかし、自分のなかで起きている変化は戻る様子がなかった。ヘンなのだ。
誰かが自分の中にいるのだ。それはその日一日中続いた。

この体験以来、僕は夜の森にはいることを躊躇するようになったのだが、
あの夜の世界と朝の世界のグラデュエーションの美しさと魅力の虜になってしまった。
その後、夜の森にはいるようになったのは、奄美大島に行ってからである。

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